なぜ私たちは、聴けないのか——「聴いているつもり」という錯覚

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私は「聴いていたつもり」だった
ムスメが泣いていました。
学校に行けない日々が続く中で、ある夜、彼女はぽつりぽつりと話し始めました。友だちとの距離のこと。先生の言葉。「わたしって、どう思われてるんだろう」という不安。
私は隣に座り、彼女の顔を見て、うなずきながら聴いていました。少なくとも、そのつもりでした。
でも途中で、彼女が「……もういい」と言って口を閉じたとき、私は気づきました。
私は聴いていなかった。
正確に言えば、聴きながら、頭の中で「次の一手」を組み立てていたのです。
「こう伝えたら気持ちが楽になるかな」
「主治医に相談すべきポイントはここだな」
「明日、学校にはこの点を説明しよう」
——彼女の言葉を耳で受け取りながら、私の脳はすでにアクションプランを設計していた。
臨床心理学を学び、家族療法の知識もある。傾聴の技法も知っている。それなのに、自分の娘の前で、私は「聴く人」ではなく「処理する人」になっていた。
この自覚は、かなり堪えました。
知識があるからこそ、余計に恥ずかしかった。そして知識があるからこそ、自分が何をやってしまったのか、正確にわかってしまった。
この違和感を抱えたまま、私は立て続けに3冊の本を手に取ることになります。東畑開人『カウンセリングとは何か』、東畑開人『聞く技術 聞いてもらう技術』、そしてエーリッヒ・フロム『聴くということ』。
3冊を読み終えたとき、ひとつの問いが浮かんでいました。
なぜ、「聴ける」はずの人間が、最も大切な相手の前で聴けなくなるのか。